世界地図を読みながら

地球を動き回ってないと落ち着かない日常

平成最後の年の瀬

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二階建て新幹線MAXとき

 

最近はずっと卒論に追われている。10月の末から11月まではシルクロードを辿っていて、日本に帰ってきて一息つく間もなく12月になった。私のゼミでは卒論の提出が1月初めだから割と時間があるように思えるが、私はもうすぐ年越しをするために海外に高飛びしてしまうから救いようがない。

 

思えばいつもこんな生活をしていた。大学に入った年、11月からアルバイトを始めた。11月から始めるとすぐに年末になる。年末は郷里に帰るから2週間くらいアルバイトは休んだ。そして2月頭からは免許合宿に南の方へ行ったからまたアルバイトを休んだ。

バイト先の人たちはみんな地元の人たちだったから、アルバイトを中心の生活をしていた。アルバイトに週3回くらいコンスタントに入り続ける生活が当たり前だったのだ。しかし私は違った。週末になればお出かけしたくなるし、ちょっとお金が貯まると格安航空券をセールで買ってどこかに飛んで行ってしまう。定住、から最も離れたところにいる人間なのだ。母にはマグロのようだねと言われ、友人には回遊魚(マグロと同じか)や遊牧民と言われるようになった。そもそも、大学で東京に出てきたのも、東京見物をするためだった。そのため、私はまだ実家にいると考えていた。実家と東京の二拠点生活。だから私の生活範囲は東海地方と関東地方、その間、だ。

 

だから東京での大学生活でも、いつのころからか、友達には誘われなくなった。誘われなくなった、というのは正しい表現ではないかもしれない。「東京にいない人」扱いを受けるようになったのだ。そのくらい私は旅に生きていた。

 

平成最後のクリスマスになった。もうすぐ平成最後の正月だ。最近の世の中では「平成最後」にあふれかえっている。いつもは西暦を使うくせにこういうときだけ、元号を使ってやがるぜ、と悪態をつきたくもなるがみんなしみじみしているんだろうなとも思う。

今月の初めには二階建て新幹線に乗った。上野駅から新潟行のMAXときに高崎まで乗った。高崎だから在来線でもよかったけどどうしても、引退するという二階建て新幹線に乗りたかった。平成10年、3歳の時に両親に連れられて浜松の新幹線工場に行ったときに100系新幹線の2階建て車両に乗ったのだ。売店で買ってもらった新幹線のキーホルダーは今でも大切に持っている。

次の週には北海道・紋別に行った。友人と羽田空港から全日空で1時間半くらいで着いた。氷点下6度の果ての国は寒かった。平成26年、名古屋の予備校に通っていた夏、猛勉強が嫌になって18きっぷを一枚持って最果てに向かったことがある。その時にヒッチハイクをして、気の向くままオホーツクの海岸線を眺めた。紋別を通ったときは稚内以来の大きな街で都会だなあと思ったことは今でも鮮明に覚えている。

その又次の週には出雲に行った。宿ではスーパーで境港産のカニを買ってきて二日連続で合計3杯食べた。出雲大社にお参りして、松江城に上った。一畑電車から見る朝の宍道湖は美しくて涙が出そうだった。ここにも平成26年に家族で訪れた。東海地方から山陰は遠くかったけど、あの時は境港でカニを買って帰った。父はカニが好きだからとても喜んでいた。

平成最後の12月はこんな感じで幕を下ろそうとしている。私は平成に生まれたから思い出は平成しかない。両親との楽しい思い出も、これまでの人生もすべてが平成の思い出だ。元号が変わっても私個人は何も変わらないけれども、楽しくも苦しくもあった平成を忘れないように生きていきたいな。

年の瀬になるにつれて街は華やいで、スーパーにも正月食品が並ぶようになってきた。そういえば先週松江城では門松を立てていた。毎年、子供のころからだけれど天皇誕生日には旗が立ち、クリスマスはキラキラと輝き、落ち着きつつビシッと決まった正月のあの何とも言えない特別な雰囲気が好きだ。今年は外国で年を越すから、あの雰囲気は来年までお預けだけれど、平成の年越しを遠くから日本と一緒にお祝いしたいな。