世界地図を読みながら

地球を動き回ってないと落ち着かない日常

2018年2月・10月 ウズベキスタン

ウズベクに行きたい。三日に一回はそう呟いている気がする。

f:id:enamin:20190710212257j:plain
大学時代、かれこれ35か国くらいに渡航したけれど、その中でも一番に感動したのはこの国だった。ちなみに、最も良くてまた行きたいと思える国はウズベク、バルト三国、カフカ―スあたりだろうか。イランのように景色は良くても、電話が自由に使えなかったりすると心理的に厳しいけれど、これらの国は電波もほどほどでご飯も美味しかった。

 

そもそも、私は大学二年生までウズベキスタンを知らなかった。

ソ連の構成国はロシアとウクライナくらいしか知らなかったし、それ以外の国は場所も名前も何一つ知らなかった。

昨年ビザ免除になってからは、日本のメディアでも何度も紹介されているが、その前までは「~スタンだから危ない」「中央アジア?遅れてる!」といったマイナスのイメージばかりだった。

 

大学二年生の夏(平成28年夏)、モスクワの短期留学で同じ部屋になった大学の先輩がウズベクの研究をしており、モスクワ滞在中はロシア料理は二の次!ウズベク料理!といった具合で何度もウズベク料理屋に連れていかれ、また他大学にはウズベク語を勉強している子もいて、彼らにサマルカンドやヒヴァの写真を見せられたとき、瞬時に行きたいと思ったのが私とウズベキスタンとの出会いだった。

 

翌年の春にみんなで行こうと計画をしていたが、モスクワまで往復三万円の中国南方航空のチケットを見つけてしまい、その時はモスクワへ行った。そこから、だんだん日は流れて、就職活動も間近に迫った冬に、ひょっとしたら今行かないともう二度と行けないかもしれないと急に思い立って、タシケントに友人が留学していることも手伝って、大学の友達はインターンをしている中、一人ウズベキスタンに立った。

 

初めてのウズベキスタン

f:id:enamin:20190710221605j:plain

初めてのウズベキスタンは刺激的だった。

まずは名古屋から日本航空で天津へ向かい、北京で一泊して翌日中国南方航空でタシケント入り、タシケントからはヒヴァ、ナヴォイ、ブハラ、サマルカンド、タシケントと10日間でウズベキスタン国内を巡った。(帰路は陸路でカザフスタンのシムケントに向かい、寝台列車でアルマトイ、アルマトイからはS7航空でのロシアのノヴォシビルスク、ハバロフスクを観光しつつ日本へ帰国した。)

f:id:enamin:20190710212225j:plain

 

ウズベキスタンで一番良かったのは、中世の趣を残した古い街と人の優しさだった。

 

タシケントから寝台列車に乗り込んで二等車で18時間かけてまずはヒヴァへ向かった。

f:id:enamin:20190710221856j:plain

タシケント駅


サマルカンド、ブハラ、ヒヴァはそれぞれ成立した時代が違う都市がそのまま残っていて、非常に美しかった。

サマルカンドは都市の中に大きな遺産が点在している、日本でいえば奈良のような街。

ブハラは旧市街の中は殆ど古い建物で占められていて、日本でいえば倉敷のような街。

ヒヴァは小さな街だけど城壁の中は馬籠や妻籠のようにタイムスリップしたかのような場所だった。

f:id:enamin:20190710221538j:plain

ヒヴァ

f:id:enamin:20190710221634j:plain

ブハラにて

f:id:enamin:20190710222533j:plain

ブハラ

f:id:enamin:20190710221727j:plain

サマルカンド


これらの有名な街はどちらかというと観光地だった。

観光と都市とが共存している感覚。

 

それに比べてタシケントは心地よかった。50年ほど前の地震で旧市街は無くなってしまい、今はソ連式の近代的な街並みが広がっていた。

お洒落なカフェも、地下鉄も、バザールも何もかもが揃っていて驚いた。

 

f:id:enamin:20190710221809j:plain

ホテルウズベキスタンとアムール・ティムール

f:id:enamin:20190710222300j:plain

チョルスーバザール

 

 

中央アジア一の大都会だけあって、観光地で過ごすというよりは雑踏の中に紛れて、

一市民になったような気がした。

 

そして、一つ違和感を感じたのは、国の中にほとんど外資系サービスの影を見ないことだった。マクドナルドもないし、ロシアのスーパーだって少なかった。(大統領が変わってからずいぶん増えたようだが)

それぞれの街には市場が立っていたり、個人商店が多くて、画一的なお店が少なかった。

 そんなウズベクは私にとって異世界だった。

世界チェーンも少なく、イスラム建築の中を歩けばまるで中世のようで、街の人たちは日本人のようにあくせく働くわけでもなく、会話をしながら楽しそうに過ごしていた。知らない人からお茶に誘われ、チャイを飲みながら私はいったいどこへやって来てしまったのだろうかと思った。

f:id:enamin:20190710222400j:plain

また、どこの町でも外国人(東アジア人)は珍しいのか話しかけてくれて、何枚も何枚もセルフィ―を撮った。私が少しロシア語が話せるとわかればガンガン質問を浴びせてくるし、日本の写真を見せてくれとせがまれた。

詐欺にあいかけたこともあったけど出会った人の家に泊めさせてもらったり、今でもメッセージを交わす友人までできた。

f:id:enamin:20190710222419j:plain

 

わずか10日間の滞在は物足りないほどだった。後ろ髪を引かれる用に飛行機で就職活動に向かった。

 

二度目のウズベキスタン

日本に帰国してから多くの友達にウズベクの良さを布教しまくった。

その結果サークルの友達は一人でウズベクに旅行に行っていたし、インスタに上げていた写真綺麗だねと何度も話題に上がった。

就職活動も終わって退屈だった7月の末頃、モスクワに短期留学に行った友人たちとシルクロード旅行の計画を立てた。中国西安から新疆ウイグル、キルギスを経由してウズベキスタンに入り、出国してタジキスタン経由で再びウズベクに入国、また10日間ほど過ごす日程だった。(帰路はタシケントからカザフスタンのアスタナ、アルマトイと寄り道をしてソウルまで帰った。)

私はとにかくウズベキスタンに帰りたかった。やり残したことをしたかった。

f:id:enamin:20190710220030j:plain

この旅もまた楽しかった。

まずは、キルギスからフェルガナ盆地のアンディジャンに入り、コーカンドやリシタン(世界ふしぎ発見で日本語学校が出てきた)を訪れた。

f:id:enamin:20190710222922j:plain

コーカンド・バザール

f:id:enamin:20190710222716j:plain

コーカンド

外務省の危険レベル3の小さな町で多くの子供たちが日本語を勉強していて、将来は東京に行きたいんだと語っているのを見たとき、自分も頑張らないといけないと心から思った。

f:id:enamin:20190710222653j:plain

リシタンの日本語学校

タジキスタンを経由してサマルカンドに入ると、秋色のサマルカンドは青く輝いていた。涼しいベンチに座って中世の町並みを飽きるまで眺めた。幸せだった。

f:id:enamin:20190710222954j:plain

サマルカンド

f:id:enamin:20190710223009j:plain

サマルカンド

f:id:enamin:20190710223027j:plain

サマルカンド

f:id:enamin:20190710223129j:plain

サマルカンド・レギスタン



ブハラにもナヴォイもヒヴァにも再訪してからは、カラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに行った。そこからタクシーをチャーターして消えたアラル海の船の墓場も見た。

f:id:enamin:20190710223107j:plain

ヌクス

f:id:enamin:20190710223158j:plain

舟の墓場

 

タシケントでは撮影が2018年上期に解禁されたため思う存分に写真を撮影した。

f:id:enamin:20190710223237j:plain

タシケントメトロ

f:id:enamin:20190710223300j:plain

タシケントメトロ

グルジア料理、ロシア料理、ウイグル料理を食べたり、工芸品を買ったりした。

f:id:enamin:20190710223348j:plain

美しい休日だった。

ウズベキスタンにはアムールティムールの繁栄の輝きも、ロシアに攻め込まれる前の中世のイスラム教の名残も、枯れ果てたアラル海のようにソ連がもたらした悲しさも、観光に活路を見出そうとしている新時代の勢いも、何もかもが新鮮でエキゾチックだった。もちろん留学している友達に言わせれば不満は限りあるのだろうが、数週間、旅をして、同じ景色を眺めて、食べ物を食べるには心地よすぎる時間だった。

 

タシケントから、またもや物足りなさを感じながら、飛行機でアスタナ、アルマトイ経由でソウル・東京へ戻った。

 

ウズベクのすすめ

f:id:enamin:20190710223441j:plain

プロフ

ちなみに、ウズベキスタンはご飯も美味しい。

肉串のシャシリーク、炊き込みご飯のプロフ、煮込みうどんのようなラグマン。

東洋的な食事のお供はもちろんチャイ(緑茶)。

f:id:enamin:20190710223406j:plain

ラグマン

西洋の国と違って、ウズベクの人たちはお茶を飲む。レストランでもカフェでもお茶を頼めるから嬉しい。無理して水を頼まなくても、コーラを頼まなくても大丈夫なのだ。

f:id:enamin:20190710223506j:plain

最近はビザも免除になったしすぐにでも渡航できる。

 

しかしながら、難点はロシア語しか通用しないこと。事実上の共通語であるロシア語が分からないと切符を買うのにも苦労するし、タクシーなどは事実上交渉制だからぼったくりに合う確率も増すと思われる。

 

そして、日本人の休みでは楽しむには短すぎること。少なくとも一週間は必要だし、できるならば二週間かけてゆっくり滞在するのがいい。

 

ただ、二度目に訪れたときは街中にATMが配備され、USドルや日本円を携えなくても、簡単に現金が手に入るようになっていたし、観光客向けのSIMカードや警察まで準備され受け入れ態勢は徐々に整い始めたように思われる。

 

今はテレビで、映画でウズベキスタンはおしゃれな国として取り上げられている。

世間の見方なんて簡単に変わってしまうものだし、大統領が変わって改革開放にすすbbでいるかの国、ウズベキスタンも、きっとどんどん変わっていくと思う。

これを読んだ皆さんがウズベキスタンに興味を持たれたとしたら、今すぐにでも行くのがよいかもしれない。明日になったらすっかり変わっているかもしれないから。

そして私自身も、一旅人としてまた再訪できることを願ってやまない。

 

※ウズベキスタン旅行記も様子を見て書いていきたいと思っています。